塩満観音

小池町周辺

塩満山の潮音寺です。

昔、小池というさびしい海辺の村に一人の見すぼらしい坊さんがやって来ました。村はずれの小高い丘の上に小さなお堂を建て、長音寺と名付けて熱心にお勤めをしていました。けれども、みすぼらしい寺なので村人はだれもお参りに来ませんでした。

ある時、さびしくなったお坊さんが寺の丘に建って海を眺めていると、岸辺近くの水中に何かきらきら光る物があります。近づいて見ると仏像のようです。お坊さんが驚いて拾い上げてみると、立派な観音様でした。さっそくお堂に安置して一生懸命お参りしました。

その話を伝え聞いた村人が次第にお参りに来るようになりました。それから間もない、ある年の7月9日にこの地に大地震が起き、大きな津波が村々を襲いました。その時村人は、日頃信仰する観音様におすがりしようと長音寺に集まり一心に拝みました。不思議なことに、さすがの大津波も長音寺の下までくるとぴたりと止まり、村人はみんな助かりました。村人たちは、観音様のお加護とますます信仰するようになり、塩満観音と名付けて立派なお堂も建てました。津波のことを忘れず観音様にいつまでも感謝し続けるようにと、7月9日を塩満観音の祭りとしました。その祭りは今日も続き大勢の参拝人でたいそうにぎわうそうです。

むかし、三河の国の東、海に近い所に小池という小さな村があってのう。村の衆(しゅう)は、せまい田畑をたやがして、ほそぼそと暮しをたてていたそうな。

ある日のことじゃ。この小池の村へ、みすぼらしいなりをした年寄りの坊さんがやって来てのう。村はずれの小高い丘にあがって、村のようすをじっとながめたんじゃと。「うん、ここじゃ、ここじゃ。この村こそわしの最後の土地じゃ。ここへ寺を建てよう。」

そのお坊さんは、若い時から托鉢(たくはつ:お坊さんが家ごとにお経をあぜにげてまわり、お米や銭のきふをうけること)をしてたくわえたお金を全部使ってな、小さな、そまつな寺を建てたということじゃ。そうして、長円寺(ちょうえんじ)という名をつけたそうな。寺の横に、小さな観音堂も建てたんじゃと。「おい、へんてこな坊さんが、この村に寺を建てたちゅうじゃあないか。」「なんでも、ちっちゃな、おんぼろの寺じゃちゅうこった。」「いくら村ん中に寺ができてものう、そんなおんぼろ寺じゃあ、お参りする気にもならんのう。」「そうじゃとも。となり村へ行きゃあ、あんなにりっぱな寺があるでのう。」村の衆は、長円寺にゃあ見向きもせなんだが、たった一人、村いちばんの貧乏人のどん作だけは、「ありがてえこった。村の衆は、おんぼろ寺じゃと言うとるが、おらのような貧乏人にゃあ、ころあいだわい。観音様もおまつりしてあるそうな。これからあ、せいぜい信心せにゃあなあ。」どん作は、朝田畑へ行く時、夕方田畑から帰る時、一日二回、長円寺の観音様をお参りしたんじゃと。
「観音様、どうかどん作めをお守りくだせえ。どん作は、毎日、いっしょうけんめい働きますので、田畑の作物がたんととれるようにおねげえします。」その年の冬、小池の村に風邪(かぜ)がはやって、村の衆は、はやり風邪に苦しんだが、どん作だけは、風邪をひかずにすんだそうな。
「おらあな、長円寺の観音様を信心しとるおかげで、風邪をひかなんだぞ。」と、いばってみせたが、どん作をばかにしておった村の衆は、「どん作のばかめ、いいかげんな事をこきゃあがる。あんなおんぼろ寺の観音様に、そんねに御利益(ごりやく)のあるわけねえぞ。貧乏人の体は、風邪をひかんようにできとるずら。」と言って、てんで相手にしてくれなんだ。

そのあくる年に、三河に大地震があったそうじゃ。七月九日じゃと言われとるがのう。三河のあちこちで、うちはぶっつぶれるし、海辺の村にゃあ津波がくるし、そりゃあ、えれえことじゃった。「地震だあ。うちがぶっつぶれるぞ!!」「おーい、津波のうなりが聞こえるぞ。早く逃げろ!!」ごうごうと、うなりをたてて、おしよせる津波にのまれたら命はない。村の衆は、われ先にと逃げてしもうた。どん作は、「そうじゃ、こんな時こそ、長円寺の観音様に助けてもらおう。」と言うて、長円寺の観音堂の前にひれふして、「観音様、どうか津波を止めてくだせえ。おらんとうの田畑やうちを守ってくだせえ。おねげえでごぜえます。」と、くりかえしくりかえしお祈りしたんじゃと。ごうごうとうなりをたてて、おしよせてきた津波が、ふしぎなことに、長円寺の下までくると、止まったんじゃと。それからというもの、村の衆も、長円寺の観音様のお加護(かご:神や仏が守り助けてくれること)を、心からありがたく思ってのう。「長円寺は、おらが村のだいじなお寺じゃ。」と言うて、みんながお参りするようになった。寺を建てたお坊さんは、それがうれしゅうてたまらなんだが、寄る年なみにゃあ勝てず、その冬、なくなられたと。村の衆は、お坊さんをてあつくほうむって、みんなで力を合わせて、長円寺をりっぱなお寺に建て直してのう、新たに仁王門も作ったんじゃ。長円寺の下で津波が止まったということで、そのあたりの土地を、村の衆は『ここまで潮が満ちてきた』ちゅう意味で、潮満(しおみち)とよぶようになったんじゃ。

後に塩満と書くようになったがのう。そればっかじゃあなく、お寺の名も変えたんじゃと。『海の潮の音が聞こえた寺』ちゅうことで、長円寺は、いつしか潮音寺と呼ばれるようになったんじゃ。そうしてのう、地震と津波のあった七月九日を潮音寺のおまつりの日にしたんじゃと。潮音寺の観音様は、おしい事に、太平洋戦争中に空襲で焼けてしもうたが、仁王門と仁王様は、今も残っており、塩満という名も、保育園や公園の名として、昔を今に伝えているんじゃ。

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